皆さんはアインシュタインと聞くと、どんな人を思い出しますか?舌を出した写真が有名ですよね!そんなアインシュタインはドイツ生まれの理論物理学者ですが、スイスのベルンにはアインシュタインの生涯と彼の功績を学ぶことができるミュージアムがあり、また当時住んでいた家もそのまま残されています。なぜドイツ生まれのアインシュタインのミュージアムがスイスにあるのでしょうか?そんな疑問を持ちながらアインシュタインミュージアムに行ってきましたので、ご紹介したいと思います。
Bernisches Historisches Museum / Einstein Museum(ベルン歴史博物館/アインシュタインミュージアム)
アインシュタインミュージアムはベルン歴史博物館の中の一部分にあります。こちらがベルン歴史博物館ですが、とても立派な建物ですね。
門をくぐって、入口に向かいます。とても重厚感のある扉ですが、近づくと自動で開きます。ちょっとびっくり!
中に入るとすぐ受付があります。常設展の入場料は13フラン(約1540円)ですが、それとは別にアインシュタインミュージアムの入場料は18フラン(約2150円)になります。「Swiss Museum Pass」があれば無料で入れます。
「Swiss Museum Pass」に関しては、こちらからお読み下さい。↓
営業時間は、月曜日が休館日で、火曜日から日曜日は10時〜17時までとなります。
入場の手続きをしたら、いつものように荷物とコートを預けます。2フランコインを入れるタイプのコインロッカーでしたが、後から2フランは戻ってきます。
ちなみに、アインシュタインミュージアムに関しては日本語のオーディオガイドがあるので、是非借りましょう!これがあると、理解が深まるのでミュージアムをとても楽しめます!
Einstein Museum(アインシュタインミュージアム)
階段を登ると、歴史博物館へすぐ入れますが、今日はアインシュタインミュージアムがメインなので、他には目をくれずにまっすぐアインシュタインミュージアムへ向かいました。入口が他と違っていて、とても現代的で、すぐに分かりました。この入口を入ると・・・
一面鏡だらけの空間でした!とても不思議な部屋です。
鏡とアインシュタインの映像がたくさん映し出され、また光が入って本当に凄い空間でした!これから始まるアインシュタインの歴史を学ぶのがとてもわくわくしてきますね!
最初の部屋に入ると、笑顔のアインシュタインが出迎えてくれます。
特殊相対性理論を学ぼう!
アインシュタインの歴史を学ぶ前に、ノーベル物理学賞を受賞した特殊相対性理論を学ぶコーナーがあるのですが、よくわかりませんでした(笑)エレベーターにそのまま乗って進む時と、エレベーターに乗りながら歩くのとでは、エレベーターに乗りながら歩いたほうが早いのだけど、同時刻に今度は懐中電灯の光を照らしながらエレベーターに乗ると、光の速さが一番早い?みたいな感じの説明でした。まあ、光が早いってことですね!(笑)
アインシュタインの幼少期〜
こちらは「嘆きの壁」ですが、アインシュタインはユダヤ人だったんです。当時ユダヤ人はドイツナチスからものすごい迫害を受けていましたから、ユダヤ人ということは彼の歴史にとってとても重要な出来事でした。
1つ目の部屋に入ると、ユダヤ人としての生き方を学ぶコーナーがありました。
こちらは、アインシュタインのご両親の写真です。父親は布団の小売商として生計を建てていたそうですが、もともと数学が好きだったアインシュタインの父は従兄弟と一緒に、電気機器を製造する会社「アインシュタイン&カンパニー」を設立し、ミュンヘンに家族で引っ越したそうです。
当時のアインシュタインは5歳くらいまであまり言葉を発せず、トランプや精密機械で遊んでいたそうですが、彼が読んでいた本が展示してありました。難しそう・・・
その後、アインシュタインの父の会社「アインシュタイン&カンパニー」はドイツのビール祭り「オクトーバーフェス」で大型の受注を受けて、大成功を納めたのですが、数年後、ミュンヘン市の電流供給が変更となり、それに対応するだけの資金を持っていなかった「アインシュタイン&カンパニー」は工場を手放し、新しい仕事を始めるために1894年にイタリアへ渡ったそうです。
規制の多いイタリアの学校に馴染めなかったアインシュタインはイタリアの学校をやめて、スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学を受験しましたが総合点が足らず受験を失敗したそうです。天才でも、そんなことがあるんですね・・・でも、やはりアインシュタイン!数学と物理の点数が最高ランクだったことから、校長先生がドイツ語の中等教育(ギナジウム)に通うことを条件に、翌年の入学を認めたそうです!その時の校長先生の文章が上の写真です。
チューリッヒ連邦工科大学時代
1年後、成績優秀で中等教育(ギナジウム)を卒業したアインシュタインは無事スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学に入学できたそうです!その時の成績表が展示してありました。最高ランクは「6」らしく、「6」がいっぱいですね!
チューリッヒ連邦工科大学では数学・物理学の教員資格を取得する4年課程を過ごしたんだとか。1列目の一番左が若かりしころのアインシュタインです!
アインシュタインの恋
アインシュタインは大学在学中、同じ教育過程を受けていたミレーバという女性に恋をします。
ミレーバは、とても成績優秀だったそうです。ミュージアムの中で、2人のラブレターのやりとりを音声で聞いた(聞かされた)のですが、すごいラブラブでした・・・あまりのラブラブな内容にお腹いっぱいになって途中で音声を止めました(笑)ちなみに、この時にドイツの兵役義務が嫌すぎてドイツ国籍を放棄していたそうです。なので、暫く無国籍で過ごし、数年後にスイスで改めて国籍を取得したんだとか。
過去のノーベル賞のメダルも展示してありました。赤十字社を設立したHenry Dunant(アンリ・デュナン)さんのノーベル平和賞のメダルもありました。以前、「国際赤十字博物館」に行った際の記事も書いていますので、ご興味のある方はこちらからお読み下さいね♪↓
🇨🇭Musée international de la Croix-Rouge et du Croissant-Rouge(国際赤十字博物館)
チューリッヒでの学生生活はとても楽しかったようです。無事に数学・物理の教員資格試験に合格したのですが、興味のない授業には出なかったり、爆発事故を起こしたり、先生と不仲だったりと色々あって、大学教授助手にはなれず、アルバイトをして生計を建てていたそうです。この部屋はその時のチューリッヒの部屋です。
結婚後と大学教授時代の功績
部屋が変わりまして、ここでは、彼の結婚後や大学教授として働いていた話や、功績などをまとめた展示室となっていました。
1902年に子供ができたそうですが、当時のアインシュタインは子供がいると自分の就職に不利になると考えていたらしく、子供を公式に発表しませんでした。この子は、ミレーバの実家で育てられたそうです。
その後、アインシュタインはベルンのスイス特許庁に3級技術専門職として就職し、公式にミレーバと結婚、子供を授かります。今度は公式に自分たちの子供と発表しています。(一人目のお子さんがとても可哀想ですね・・・)
同時期にベルン大学で授業を持つこともあったそうですが、あまりにも話が真面目すぎて生徒から人気がなく毎回2人しか授業を受けに来てくれなかったそうです。
そして、その2人というのが、アインシュタインの親友2人だったんだそうな(笑)いい友達を持ちましたね(笑)
1905年、アインシュタインが26歳の時に3つの重要な論文を発表しました。「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」についてです。「特殊相対性理論」は、冒頭でお話したように「光は早い」みたいな話でしたね(笑)他2つについても説明があったのですが、とにかく難しいです。。。確かこれはボールをドリブルしながら歩いた時と、その場でドリブルした時の速度の話でしたが、なんかそれが宇宙的なことに応用できるんですね・・・。
アインシュタインがそんなことを発見した時期の、暮らしを並べたコーナーがありました。例えば、この大きな車輪はスイスの登山電車に使われていますが、それが開発された時期だとか、ミシンはペダル付きが主流の時代だとかでした。
1907年には、有名な式「E=mc²」を発表しました。質量とエネルギーの関係を示す等式だそうです。難しすぎて何のことがわかりませんが、この式はとても重要なもので、広島に落とされた原爆の核分裂もこの式が元になっているんだとか・・・後からアインシュタインが話していますが、「自分はあのような悲しいことに使うために、この式を発見・発表したわけではない」と・・・科学者や物理学者が発見したものは、必ずしも自分が役立てて欲しいことに使われるとは限らないというのは悲しいですね・・・
ちなみにこの式を発見した時はベルンに住んでいたらしく、その時の家がそのまま残されており、見学することができます。以前行ってきたので、ご興味ある方はこちらからお読み下さいね♪↓
🇨🇭スイス日帰りの旅②〜まるごと世界遺産の街Bern(ベルン)編〜バラ公園、クマ公園、アインシュタインの家、1218年の時計塔
当時のベルンの街並み
当時のベルンの街並みの写真や、
お店が再現されていました。
アインシュタインと同時期に活躍した著名人
このあとは、アインシュタインがベルンに住んでいた時期と同時期に活躍していた様々なアーティストや学者、芸能人などを紹介する部屋に行きました。先日ご紹介した私の大好きなPaul Klee(パウル・クレー)も同時期に同じ都市で活躍していたなんて驚きです!
Paul Klee(パウル・クレー)についての記事はこちらから↓
🇨🇭Zentrum Paul Klee(パウル・クレー・センター)
展望台
活躍していた方達を見たら、螺旋階段を登るようにオーディオガイドの指示があったので登ってみました。
すると、ベルンの街並みが一望できる素敵なお部屋に着きました!
「街全部が世界遺産」のベルンの素晴らしい街並みを見ることができて、本当に感動しました。なんて美しい街なんでしょうね・・・
それから、こちらの絵が飾ってありました。この絵はベルンの橋の絵らしいのですが、この橋をこの場所から見ることができます。
こちらです!この正面にある橋と先程の絵が同じ場所らしいです。今はもう昔ながらの石の橋ではありませんが、同じ場所を見ることができて不思議な感覚になりました。
アインシュタインの人生後期
螺旋階段を降りたら、アインシュタインの人生後半編が始まりました。当時、結構お稼ぎになられていたらしく、高級ホテルや高級レストランによく行っていたようです。こちらは、ホテルのお食事の様子を再現したテーブルらしいですが、食器を見ただけでも、高級ホテルということが分かります。
それから、キュリー夫人と写っている写真もありました。この頃のアインシュタインは、科学や物理の分野でとても有名人で、同じ研究をしていた仲間とも頻繁に意見交換などしていたようです。ちなみに、キュリー婦人はポーランドのワルシャワ生まれで、放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞のダブル受賞をしている方です。以前、キュリー夫人記念館も行ったので、キュリー夫人についてご興味ある方はこちらからお読みくださいね。↓
🇵🇱ポーランド&🇱🇹リトアニア5泊6日旅行記2日目〜🇵🇱ポーランドの歴史と偉人について学ぶ(ポーランド・ユダヤ人歴史博物館、ショパン博物館、キュリー夫人記念館)
しかし、キュリー夫人とアインシュタインが同時期に生きていて、意見交換をしていたとか凄すぎますね・・・!
研究や、意見交換、仕事も順調だったアインシュタインですが、なんとこの時期から奥さんのミレーバとの関係が悪化したそうです・・・アインシュタインはミレーバに3つのルールを設けていました。①あなたが私に優しくしても、自分が同じように優しくされると思うな(見返りを求めるな)②私が仕事や研究をしている時は、黙ってベッドルームなどに行き、私の目に触れないようにしろ③私が何をしても指図や文句を一切言うな。
え、ちょっと酷過ぎませんかね・・・・?アインシュタインさん・・・
これに耐えかねたミレーバは離婚を決意して、2人は別れちゃったらしいです。そして、アインシュタインは、その頃、この写真の彼女に夢中になっていたそうです。(この女性はアインシュタインの従姉妹でエルザという女性)
あらあら・・・そして、エルザと再婚しました。なんか、ちょっとイメージダウン・・・
プライベートで色々ありましたが、1921年ノーベル物理学賞を受賞し、世界中を旅行して回ったそうです。
皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられることを発表していたアインシュタインは、この考えが世界中のマスコミに取り上げられていて、とても有名人になりました。アメリカ旅行の際、アインシュタインが通るだけでこの人だかりだったそうです。
当時のパスポートも展示してありました。
この表は1914年の第一次世界大戦からのドイツのお金の価値を表したものですが、約9年で、お金の価値がものすごい下がっていることが分かると思います。それくらい悲惨な状況だったのですね・・・
そこから、1933年になり、ドイツでヒトラー率いるナチスが政権を獲得し、ユダヤ人への激しい迫害が始まっていたそうで、ユダヤ人のアインシュタインはドイツに戻ることをやめたそうです。
そこで、もともとスイスの国籍を取得していたアインシュタインは、スイスに助けを求めました。ところが、スイスの解答はとても驚くものでした。「あなたが有名で素晴らしい研究と成果をあげたことは、誇りに思いますが、あなたは今まで一度でもスイス人と名乗って論文を発表したことがありますか?常にドイツ人ということで発表していたと思います。そのような理由だけでも、私達(スイス)があなたを援助する理由はないでしょう」と・・・
え・・・、スイスめちゃ厳しめ!!でも、まぁ理解できると言えば理解できますね・・・
ということで、アメリカに亡命したそうです。いやぁ、臨機応変ですね!
当時使っていたスーツケースも展示してありました。おしゃれなスーツケースですねぇ。ただ、1936年に奥さんのエルザが亡くなってしまいます・・・独り身になってしまいました・・・
独り身になったアインシュタインですが、素敵なお家で自分の会計士の家族や、色んな方と楽しく過ごしていたようです。この頃、秘書の女性との噂もあったそうですが、完全否定しています。ただ、アインシュタインが亡くなった後の遺産管理はその秘書がしたんだとか。あら・・・?
アインシュタインが発見した式「E=mc²」、そして広島原爆投下・・・
そんな平和な生活を送っていましたが、1939年ドイツ軍も力をつけているし、原子力爆弾をドイツがもし作ったら恐ろしいことになると危機を感じたアインシュタインは当時のアメリカ大統領ルーズベルトに手紙を書いたそうです。「ドイツが先に開発する前に、アメリカでなんとかするべきではないか」と・・・
この手紙がきっかけなのかはわかりませんが、アメリカは原子力爆弾の開発を始めたそうです。アインシュタインが発見した式「E=mc²」を使って・・・
そして、1945年広島への原爆投下が行われてしまいました。これにアインシュタインはとてもショックを受けたそうです。「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説をして、平和についてあちこちで話すようになりました。
そうですよね。自分の見つけた数式によって、こんな悲劇を生んでしまったのですから。もちろんこれが目的で作ったわけではありませんでしたが、少なからずとも責任は感じていたみたいです。
当時のニューヨークタイムスの表紙がアインシュタインと原爆になっていますね・・・まるでアインシュタインが作ったかのように・・・
1955年には、核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名したそうです。本当に、平和を願っていたんですね。
アインシュタイン70代
ちなみに、70歳になったアインシュタインは、新しく彼女を作ってクルーズなどで楽しんでいたそうです。いやぁ、恋多き科学者ですね(笑)
こちらはアインシュタインの写っている最後の姿だそうです。1955年、腹部動脈瘤のため満76歳でこの世を去りました。死の間際にドイツ語で最後の言葉を遺したそうですが、アメリカの病院だったため、その場にいた看護師がドイツ語を理解できず、アインシュタインが最後に何を言っていたのか、その内容については不明のままなんだとか。
こんな感じで、アインシュタインの一生を学んできましたが、日本語のオーディオガイドがあったおかげで、本当に理解が深まったし、どんな人なのか、どんな人生を送ったのかよく学べました。
ベルンに行くことがあったら、是非行っておきたいミュージアムだと思います。
ミュージアムで見た絵の橋
アインシュタインミュージアムを出たら、アインシュタインミュージアムで見た絵の写真の橋を渡りにきました。
↑こちらの絵です。
橋からの景色は本当に綺麗で、ため息が漏れるほどでした。
空が青くて、建物も映えますね。
以上、Einstein Museum(ベルン歴史博物館/アインシュタインミュージアム)でした。
「Bernisches Historisches Museum / Einstein Museum(ベルン歴史博物館)」の場所
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